『四諦』という教説があります。
『四つの真理』という意味です。
初期仏教において最も重要とされお釈迦さまが最初の説法で説いたとされているものです。
無謀にも此処に解説してみようと思いました。
まぁ此のような教説であるというのをお伝えするのが精一杯かもしれませんが頑張ります。
先ず始めに話しておきたいことがあります。
インドには輪廻転生の思想があります。
思想というかお釈迦さん当時のインドでは皆が信じていました。
所謂、死にかわり・生きかわりです。
何度でも生き返るならラッキーと思う人もいるでしょうけど、インドの人が考えた輪廻は人生の失敗や苦しみを何度も味合う苦そのものと考えていました。
その生まれかわり、死にかわる場所は天国や極楽という別世界ではなく「この世」ここ娑婆世界だというところに特徴があります。
前世の記憶がないのがせめてもの救いかもしれませんが、その輪廻の輪から脱却することを解脱というのも頷けます。
それはさて置き、お釈迦さまは悟りを開かれてそのままこの世を去ろうと思い、悟った内容を反芻しながら二十一日の間「自受法楽」の境地を過ごされたそうです。
その中で梵天の勧めに請われ最終的に人々のために説くことを決意します。
しかし、悟った真理を言語化することは不可能でした。
本当なら悟った内容をそのまま教えたかったけれど表現できる言葉がなかったのです。
やむ無く真理についての解説をするしかありません。
こうして伝道の旅が始まり、かつて苦行を共にした仲間五人に教えを説いたのです。
これを初転法輪と言います。
初めて「法輪を転じ」たのでありました。
現代なら出版したり、メディアを通じたり、SNSを活用して大衆伝道が出来るけど古代の社会では弟子を作って教育し、後世に伝えて行くしかなかったのです。
四諦の教説
四諦の教説には苦諦・集諦・滅諦・道諦があります。
因みに、諦は「あきらめる」の文字です。
願い事が叶わないことを知り、願い事への思いを断ち切るという意味で使われます。
ただこれだと悔い、怨み、愚痴が残ります。
一方、物事の道理を弁えることによって願い事が達成されない理が明らかになり納得して断念するという意味もあります。
仏教のあきらめは後者です。
四苦八苦の教えは最初の苦諦で説かれます。
先ず「生老病死」が有名で「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」の四苦が合わさって八苦となります。
「四苦八苦」の言葉は此処から来ているのです。
生苦は「生きることの苦しみ」と説かれます。
この娑婆世界では耐え忍んで生きていかなければならないと。
もう一つ意味があります。
其れはこの世に産まれ出る時の苦しみ。産道を通って産まれ出るのは赤ちゃんにとって相当苦しいものです。
苦しさのあまり前世の記憶を忘れてしまうとまで考えられました。
老苦は老いて頭も体も衰え行く、朽ちて行く苦しみです。
しかし幼い時はそれを成長と言います。
若い頃は成長と言い、歳をとったら老化という苦です。
病苦は文字通りです。
これは若い・年寄りに関係なく苦です。
病気になってはじめて健康の有難味を知るのです。
死苦は誰も遁れられません。
産まれた時から死に向かって進んでいます。
形あるものいつか壊れます。
この死苦はいつか味わうことになります。
愛別離苦。
夫婦・親子・恋人・友人など愛する人との別れはとても辛いものです。
死別となれば表現できない苦しみです。
怨憎会苦。
嫌な人と会わなければならない苦。
馬の合わない人と出来れば会いたくないがそういうのに限って付合いや仕事上のことで会わなければならない。
相性が合わない人というのは有るものです。
求不得苦。
いい大学に入りたい。
給料が良くて休みがしっかり取れる会社に就職したい。
マイホームを建てたい。
彼女が欲しいけど…。
頑張っても頑張っても手に入らない。
求めても得られない苦しみです。
八つ目は、人としての体と精神面を「色受想行識」の五つの構成要素から説明した苦で五陰盛苦と言います。
此の体が自分の思い通りにならない苦しみです。
それはそうでしょう、禿たくなくても禿げてしまった。
思い通りになりません。
苦諦の次は集諦です。
苦しみを観察し、それらを生起させる原因は何かを説いているのがこの集諦です。
原因は「渇愛」と説明します。
簡単に言えば欲望です。
欲望には充足させれば解消できるものもあります。
例えば排便排尿。
しかし、そういったものは渇愛とは言いません。
どちらかと言うと欲求と言えます。
トイレに行ける状況にあって排尿の欲求が生じる。
水が飲める状況にあって水が飲みたいと思うのと同じ様なものです。
充足・満足させても解消できない欲望を渇愛というのです。
七十歳まで生きてそれで満足かと思えば更に八十歳まで生きたいと思う。
八十歳まで生きれば九十歳まで…。
まぁいつかはお迎えが来るとしても本質的に充足する事がない。
渇愛が渇愛を作り、渇愛が渇愛を充足させようとするから永遠に続くのです。
第三は滅諦。
苦諦は人間存在そのものが苦であると言っているようなものです。
集諦はその苦をもたらすのが渇愛(欲望)であると明かしました。
此の滅諦は、苦を作る渇愛を止め・滅する方法を説いた真理です。
渇愛を全部滅して無執着になった状態を理想とします。
しかし、人間は苦の存在であるから苦のない状態が分かりません。
お釈迦さまが教えてくれたものを信ずる他ないのです。
「滅諦」の「滅」の原語はパーリ語の(nirodha)。
ニローダは「滅」と訳すよりも「制御する」「コントロールする」と訳すべき言葉です。
「滅」と「コントロール」とでは、随分と意味が違います。
コントロールであれば、私たちにも出来そうに思いませんか?
しかし、それでも渇愛をすべてコントロールしないといけません。
それが理想だとされると、やはり私たち凡夫には無理なようでもあります。
四番目は道諦。
道諦では滅諦を得るための実践法が説かれます。
これを八正道と言います。
1正見。ショウケン
移ろい行く物事・事象・状態などをありのまま見ること。
2正語。ショウゴ
正しい言葉を使いなさい。
ということ。
その言葉が人のためになるかどうか気を付けて用いること。
3正業。ショウゴウ
正しい行い。
盗みをしてはいけないのは勿論、人に危害や迷惑をかけないこと。
4正命。ショウミョウ
人のために働くこと。
社会に貢献することです。
5正精進。ショウショウジン
悪い行いをしないよう自身を律し制御する努力をしなさい。
6正念。ショウネン
自分の好き嫌いや勝手な判断を入れずに物事を見る。
お釈迦さまは「ただ、観よ」と言われました。
7正思濰。ショウシユイ
人を助ける気持ちを持ち短気を起こさず怒りを持たず貪欲を捨て余計な欲に悩まされないように生きること。
8正定。ショウジョウ
正しい瞑想を行い心を安定させること。
この正定を行うことによって6正念が得られると説きます。
この四諦の教説に馴染みが薄いのは小乗仏教の教説だからです。
日本には大乗仏教が伝わっているので「空の思想」が優勢です。
空の思想の概説はまたの機会に。
宗報令和4年度版から転載