『系譜』とは親子兄弟などの血縁関係・師弟の繋がりを系統的に示した図や記録を云います。
古今東西、宗教に限らず長く続いている◯道、◯◯流派と呼ばれるところは系譜をとても大事にします。
日蓮宗にも日蓮を筆頭に六人の弟子が居ました。
不受不施日蓮講門宗はその中の日朗(日朗門流)の系譜にあります。
そして日像は日朗のお弟子なので日蓮からは孫弟子になります。
日像は文永6年(1269)下総国(現千葉県北部茨木県南西部の領域)の豪族平賀忠晴の子としてお生まれになりました。
数え年7歳の時に父に連れられ、異父兄の日朗のもとを尋ね、門弟として入門しています。
同年、日朗は日像を伴って身延山に登り、日蓮から*1御教誨を頂戴します。
この時、経一丸(一説には経一磨)の名を賜り、お曼荼羅本尊を授与されます。
その時、日像は日蓮の直弟子となっています。
日像14歳の時、日蓮臨終の際に枕元に呼ばれ「京都にお題目を弘めなさい」と告げられます。
日蓮滅後(1282)肥後房日像と名乗り正式に日朗の弟子となって勉学に励みます。
永仁元年(1293)日像25歳の時、ついに日蓮の遺命を実現すべく京都を目指し出発。
当時、日蓮宗の教線は鎌倉・千葉を中心に勢力を伸ばしてはいたが未だ地方の小教団に過ぎなかった。
京都は天台真言浄土等の教線が強く、新参者の日蓮宗は近寄ることも難しかった。
それゆえ、文化の中心であり、天皇のお膝元でもある京都への進出と布教は日蓮の念願でもあったのだ。
日像は北陸を経由して京都に向かう途中、能登の真言僧を宗論で帰伏し日蓮宗に改宗させている。
日像は比叡山の麓に到着し、伝手があったのか油屋太郎兵衛にお世話になるも比叡山の案内役まで引き受けてくれた。
太郎兵衛は日像の人柄に惚れ込んだのか日像の弟子となっている。
さらに大工の藤右衛門を紹介され京都中の諸寺、南都の寺々を見物して回った。
この藤右衛門も日像に帰依している。
洛内観光を終え、日像の伝道布教活動が開始された。
路傍にてお題目を唱え続け、時に辻説法を行う。京都綾小路(裕福な商人が多かった通りだという)に法華堂を建立し、そこを拠点とし布教活動を続けた。
それが功を奏して京都の有力町衆の帰依を得る。
また、天台真言の寺に宗論を挑み、論伏して日蓮宗に改宗させてもいる。
その間、たびたび巻物をしたためて天皇に上奏し法華経の法理を説いた。
しかし其の事が比叡山や他宗の反発を招き『身分を越えて出過ぎた真似だ』と妬まれ、徳治2年(1307)に土佐配流、翌3年に紀伊流罪、日像43歳の時には洛内追放と、4年の間に3度の弾圧と3度の赦免を経験している。
この間、弾圧にもめげず法華堂を移転して妙顕寺を開創する。
その後の政局の激動と騒乱も生き抜いた。
日像66歳の時、後醍醐天皇によって妙顕寺は勅願寺となり中央政府に公認された。
ここに日蓮宗は名実ともに京都に根を下したのである。
康永元年(1342)後事を弟子の大覚に託し、11月13日妙顕寺で入滅された。
時に74歳。
京都は不受不施派にとって大変縁がある。
備前法華と言われるように備前に法華が弘まったのも日像が京都に礎を築き、その弟子大覚大僧正の精力的な布教があったればこそである。
その後も弾圧は散発するも日蓮宗は不受不施をもって団結を強めた。
それが秀吉の先祖菩提を弔う『千僧供養』から*2王侯除外の不受不施を唱える者が現れ、内部に不和が起きる。
その時頑として不受不施を貫き通したのが仏性院日奥である。
以後は政治の力を借りる輩に勢力を徐々に削がれ、安國院日講の時代、禁教に落とし込まれたのである。
像講は日像への報恩感謝を捧げる大切な行事です。
日像が居なければ以後の系譜がありませんでした。
師の日朗は元応2年(1320)1月21日に入滅されており其の御命日前夜に『日朗さま』と称して直筆曼荼羅を掲げ、報恩感謝のお看経をあげていたこともあります。
文中敬称略
注釈*1 教誨 僧としての心構えを諭す。
注釈*2 王侯 支配者・権力者を指す言葉。