宗報

安國院日講上人略伝

誕生当時の宗門情勢
 講師は、江戸時代の寛永3年(1626)7月23日、京都で生まれました。
 姓は欲賀オシカ。
 父の名は八右衛門、母は妙珠日漸という戒名だけが伝わっている。
 家柄については宮中の武士であった説が有力で、幼い頃の名前は虎一丸。兄と二人の姉がいました。
 講師の姻戚には、関東の中山法華経寺貫首の日養がいました。
 叔父にあたる松尾宗二は、慶長17年(1612)講師の師匠・日習に従って日奥の赦免状を携え、対馬に渡った人です。
 講師一家はこぞって法華宗の信仰家であり、殊に日奥を慕っていたと思われ、講師もその環境の中で育ちました。
 講師が生まれた年の9月、先代の徳川家忠の室の追善読経の問題を契機として、またまた受・不受論が起きています。
 さらに、講師が5歳の時には、身延と池上の論争に発展し、「お上の意に違背」の咎で、不受不施派の主だった僧が遠島流罪にされる事件が起きている。
 かくて、不受不施派は弾圧され、池上は受派方に与えられ、京都不受不施派の中心である妙覚寺も受派に附された。
 つまり、当時の宗門は受・不受の論で紛争し多くの脱宗者も出していたのです。
 彼らは、日蓮教学を非難批判したが、不受不施論者は一斉に反駁に立ち上がりました。
 講師はこのような時代に遭遇されたのです。

 講師は10歳の時、日奥の弟子であった日習のもとに入門され、名を恵雄と改めています。
 日習のお膝下にあって教学の研鑽に努めること10年、その間、師匠の感化教育を受け、親しく日奥の論文に接したのでありました。

関東遊学
 20歳の時、関東の中村と飯高の両檀林に学び、関東一円の高僧を訪ね歩いて宗義の研鑽にも努められています。
 例えば、23歳の時に中山法華経寺に日養を訪ねて日蓮聖人の直筆を拝し、不受不施が法華宗の正論であることを確認され、今までの持論に確信を持たれています。
 25歳の秋には、日蓮聖人生誕の地である小湊の日遵を訪ね、独自の見識と宗義上の問題を質問して教えを受けるところがあったようです。
 このように、修学の合間に各高僧を訪問して宗義の研鑽に励んだのです。
 27歳の春に、同僚の日達と共に帰省し、師匠の日習を見舞っています。
 この時に安國院を授かります。
 この帰省の間に、堺白河に講席を開き、関東遊学の成果を披露しました。
 その講義は素晴らしく博学であったようで、奥師再誕とまで言われました。
 承応2年、関東で受・不受論が再燃し、平賀・小湊・碑文谷の不受僧が寺社奉行所に出頭を命じられる事件が起きています。
 このような状況であったから、承応3年、講師29歳の時、母の訃報に遭った際も帰省できなかった。
 翌年の明暦元年(1655)の冬、母の墓前に参るのもそこそこに、鳥羽の経蔵に入って、あらゆる典籍を読みあさり、日典・日奥の遺著を編集して「奥心鑑」と名付け、生涯の宝鑑・後世の明鏡として座右に置かれたのである。
 こうして数年の間、京都に留まり、万治元年(1658)、講師33歳の時、心に決するところがあって、佐渡の霊跡参拝に旅立ち、親しく日蓮聖人が籠もられた地を偲ばれたのであった。

 翌年の2月、帰京の途中で父・八右衛門の死を知らされるが、その冬には再び関東に戻って宗義の研鑽を続けられた。

教職時代と寛文法難と
 寛文元年(1661)の秋、野呂檀林の講師となった。
 講師36歳の時であり、今度は教鞭を振る側になったのである。
 4年間の講義を行って教職を退き、江戸谷中の感応寺で再び経典の閲覧にふけられている。
 その間にも野呂檀林から再三の依頼があり、再び教鞭をとることになる。
 時に、「学徒、講師の学徳を慕って多数集まった」という。
 この寛文5年(1665)の春頃から、不受不施派への弾圧がますます強くなり、ついに幕府は「土水供養令」を発したのであった。
 すべての寺領は、徳川幕府からの供養であるとし、その供養を確かに受け取ったという旨の証書(手形)と「不受不施の党にあらず」という誓状の提出を命じたのである。
 土水供養令は、不受不施寺院だけでなく、各檀林にまで及んだ。
 講師は、同志の日浣・日述・日了らと会合し、その対策を協議し、様々な有力者の間を奔走して陳情を企てたのである。
 講師は諸寺を説得して回り、結束を固めて、宗義上からも断じて応じられない旨と、幕府の不法を訴え、一般の信者たちも励まして団結をはかった。
 講師らの運動は功を奏し、芸州婦人たちの尽力によって一時は事なきを得たように見えた。

 芸州婦人(1614~1700)は、自昌院と言い、前田利長の女で徳川家康から言えば外孫に当たる人で、熱烈な法華信仰家であった。
 特に、講師の学徳を慕い仰いでいた有力者である。
 ところが、この事件を境にして不受不施派内に不協和音が鳴り始めた。
 小湊の日明らは、
 『たとえ、不受不施が重要な宗制であるといっても、諸寺がことごとく幕府に逆らい、滅びるようなことがあれば、かえって不受不施の教えは断絶し、宗門が滅びる恐れがある』として、宗門安泰のためという理由で、幕府に妥協することを提案したのである。
 そして、奉行の内意を受けて「不受不施の党にあらず」の項目を削除し、寺領受領の手形だけ提出したのである。
 かくて、不受不施派中に、軟派硬派の分裂が生じ、特に軟派を「悲田派」と称した。

 講師によれば、
 『寺領・地子は、これを施した者の心によってその意義が異なる。
 それが信仰上のものであれば、敬田供養となり、世間一般の施し(この場合は政道上の仁恩)であれば恩田供養となる。
 前者は三宝の恩であり、後者は国主の恩である。
 いわんや、飲み水や人が往来する道路まで、みな国主(幕府)の供養であると言うのは甚だしき暴論である。
 天地自然界の恵みは、この世界の主である本仏釈尊からのものであり、その子である衆生は、その恵みを一様に受けているに過ぎない。
 ただ、慣習にしたがって政道を設け、仮に国主の所有としているだけである。
 この身、道路飲水などは天地の恵みであり、それをすべて国主の供養と論ずるのは不当である。国中のものすべてが国主の布施供養であると言えば、天地の恩、父母の恩、社会の恩をも認めないということであり、理不尽である』と主張したのであった。

 しかし、この「土水供養令」は徳川幕府の宗教政策の一貫として出てきたものであり、仏教に限らず、宗教を政治の傘下に入れようとしたものであった。
 ために、拒否すれば武力行使は免れ得ず、弾圧されるのは明らかであった。
 時に、芸州婦人は講師の身を案じ、その主張を緩めるように忠告した。
 だが、講師はこれに応ぜず、寛文5年の11月に、同志の日述・日瑤らと共に寺社奉行のもとに赴き「お上の不法」を訴えて陳情、手形の提出を拒否したのであった。

佐土原流罪
 講師は、翌年寛文6年(1666)の二月に「破奠記」二巻を草稿して受不施派を批難し、4月には「守正護国章」を著わして奉行所に赴き、諫暁を試みられた。
 ついで、酒井氏・井上氏・板倉氏などの有力者を訪ねて陳情を進言され、駒込の本浄寺に滞在されて回答を待ったのであった。
 講師と共に活動してきた同志の、日述・日完・日堯・日了らは既に四国に流罪され、今まさに講師に裁定が下された。
 5月29日、ついに徳川幕府は講師を奉行所に呼び出して島津飛騨守邸に拘禁し、日向佐土原へ流罪配流が命じられたのである。
 講師は、もとより覚悟の上であったが、ただ不受不施の主張が受け入れられなかったことを悲しみ、今後、新義を唱えたり迎合する党が出るであろうことを嘆いたのであった。
 6月26日に物々しい警固の武士に護られて江戸を立ち、講師は配流の途に着かれたのである。
 時に、沿道の信徒は講師の籠を追って「再会期し難き」を嘆き、号泣して別れを惜しむ者一千人に及んだという。
 講師配流の同日、同志の日浣も今の熊本へ流罪が決まっており、道中、日浣の籠と相い前後したという。
 講師と日浣は、お互いに遠見して別れを告げられたのであった。
 7月12日大坂を船出し、7月20日に日向の佐土原に着かれたのである。
 講師、時に41歳の夏のことであった。  この寛文不受論は、幕府の宗教政策による弾圧によって引き起こされたものである。
 しかし、その裏には、日蓮教団内における「身延と関東諸寺との内紛」があったのだ。
 寛永の不受論、身延山と池上本門寺との論争以来、絶えず受派と不受派の間に抗争が続けられていたのである。
 身延側は、執拗に不受不施派を異端邪説の党として幕府に訴え、官権の力によって弾圧しようとしていたのである。
 それが表面化したのが「寛文不受論」であり「寛文法難」なのであった。

流罪地の講師
 当初の1ヶ月間は屋外への出歩きが出来ないほど不便な思いをされたようである。
 また、信者の面会なども禁止され、関係者以外は出入り出来なかった。
 配流された年の暮れには、江戸から遠路はるばる面会人が訪ねてきたが、いずれも許されず、虚しく帰らざるを得なかった。
 読書は自由であったが、御遺文や法華経に関するものは一切禁じられ、著書にいたっては短編と言えども許されなかった。
 初めこのような拘束の中に不自由な生活を送られ、法要などの会式は配流の身分ゆえに執行不可能なことであった。
 配流の翌年春には、芸州夫人から多くの書籍が送られてきた。
 講師にとって書籍は心を慰める唯一の友であり、また念願の日蓮聖人御遺文注釈の研究に必要欠くべからざるものであったから大変喜ばれ感謝されている。
 配流されて1年後、屋敷内の散策が許され、江戸から帰国した領主の島津飛騨守の慰問を講師は受けたのである。
 間もなく、領主の招きで講師は初めて城に登り、その時、書院の増築と宅地の拡張を告げられたのであった。
 このようにして講師は、配流後いくばくもなくして、その人徳が島津藩内に伝わり、領主からは賓客の礼をもってもてなされたのである。
 面会も年を追って緩和され、公に、あるいは内密に面会が許されるようになった。
 配流後、2度目の正月には年始の読経に障るほど人の出入りが賑やかだったようである。
 また、かねてから増築中であった書院や文庫、拡張中の蓮池や庭園が完成したのもこの年の春であった。
 庭園や池は、かなり広かったと推測されており、配流の身分である講師を慰めようとした領主飛騨守の心情と厚意がうかがわれるのである。
 この年には外出も相当自由になったようで、公に城下内の出歩きが許されている。

芸州夫人との訣別
 江戸での不受不施派への弾圧の手は、ますます厳しさを増していた。
 強信の信者は、悲田一派の変説に嫌気をさし、配流された諸師への同情が高まりつつあった。
 立場をなくした悲田派は、事の改悔を整えて配流の不受不施諸師と和解することを画策したのである。
 その為に、幕府に提出した寺領の受領証である手形を取り戻すことと、流罪された不受派諸師の赦免運動を起こすことなどを約束し、誓約書を芸州夫人に托して、その斡旋を頼んだのである。
 芸州夫人は、その願いを容れて斡旋に努めたので不受一派と悲田派は妥協するに至った。
 講師は、配流3年目の寛文9年(1669)9月頃この報を聞き、「寺を退出した不受僧もついに悲田派に転じた」との知らせに、嘆き悲しんでいる。
 芸州夫人は、講師の身を案じて、その主張を緩めるよう説得された経緯があった。
 講師配流の後は、一早く書籍をはじめ衣服寝具などを配所へ送り、その後も夫人の厚志に変わりはなかったのである。
 講師も度々感謝されており、配所にあっても正月5月9月には芸州屋敷のお日待ちの読経を捧げられていた。
 また、芸州夫人には信仰の不退転を励まされ、夫人も講師に不惜身命を誓われている。
 そして、老中に訴えて講師の赦免運動も試みられており、赦免が許されないと知ると、芸州広島への預かり替えを願い出て、この年の暮れにはそれが実現する運びになっていた。
 ここにおいて講師は、夫人をはじめ悲田派と和融した不受不施僧たちに不通状を送りつけ、9月には恒例の芸州屋敷へのお日待ち祈祷を停止したのである。
 そして、今までに夫人から送られてきた衣服や寝具を返納したのであった。
 芸州夫人からはその後も、たびたび手紙が届けられ、世間的な通用を望まれたが講師は断っている。
 長年の厚遇を思うにつけ、講師の内心には悲痛極まりないものがあったろう。
 表面には一女性のために法義を乱すことは出来ない旨を誇張され、つとめて夫人の存在を忘れようとしている。
 それだけ講師の心中には、苦しいものがあったのである。
 当然、準備が整っていた広島への預かり替えも拒否され、講師は夫人と訣別されたのであった。

法華経の講義許可
 講師は漢籍や禅の仏書を願い出に応じて講議されている。
 また、俳句や詩・演劇などに気を紛らされていた。
 しかし講師の意図するところは、漢籍や一般仏書の講議でも、俳句や演劇を楽しむことでもなかった。
 それは、世間の煩わしさから離れて日蓮聖人の御遺文を註釈することであった。
 配流されてからそれら参考文献の抜萃を行い、生涯禁酒の願を立てて宴会から身を遠ざけようとされている。
 禁止されている法華経の講義についても、奉行を通じて懇請されていたが許可が出る筈もなかった。
 しかし、寛文13年11月、ついに法華経講義の許可が下りたのである。
 講師にとって、今までの苦労も忘れる思いであったに違いない。

領主の死去
 講師は、次に日蓮聖人の著作注釈を念願された。
 延宝4年(1676)、講師は51歳の春を迎えていた。
 年頭にあたって、まず法華経の一万巻読誦と日蓮聖人著書注釈を誓願されたのである。
 かくして、法華経の読誦が寸暇を惜しんで重ねられたのであった。
 この年の8月に島津飛騨守の死去に遭遇された。
 島津飛騨守は、寛文4年に14歳で家督を相続し、16歳で講師を預かって26歳で亡くなるまでの間、講師を模範とされ、流人の講師に対して恩師の礼をもってしたのである。
 初めて講師のもとを訪れて以来、年末年始は言うに及ばず、江戸参勤の前後にも慰問することを欠かさなかった。 また、講師をたびたび城に招待している。
 書院文庫の寄贈・庭園に至るまで、善意を尽くして講師を慰めようとされ、衣服なども講師の辞退にもかかわらず贈っているのである。
 飛騨守死去は、講師にとってもショックだったに違いないし、何と言っても以後の待遇が変わるのではないかと思うのだが、家督を継いだ又吉郎らによって同じく厚遇された事を思うと、講師の人徳が窺い知れるのである。

録内啓蒙の編集著作
 延宝5年(1677)から日蓮聖人の御書の講義が始められ、貞享4年までの10年の間進められた。
 講義に、注釈の為の抜萃に、法華経の読誦に、悲田派や受派・日蓮教学批判への反論の著作にと忙しい日々を過ごされている。
   ところで、公には短篇といえども著作は禁じられていた。
 それが、領主たちの尽力で緩和されたものなのか、日蓮聖人の御遺文注釈書である録内啓蒙の著作にとりかかられている。
 録内啓蒙は、一種の辞典のようなものであり、その製作には大変な労力と時間、そしてたび重なるチェック、多くの優れた人材の用意が必要であることは言うまでもない。
 この録内啓蒙の出版を計画していた矢先の元禄4年(1691)、悲田派が壊滅するに及んで、京都の日相より「この度の出版は延期されたほうがよい」の忠告があり、出版を中止されている。
 しかし講師は、たとえ自分が生存中に出版できなくとも後の代に刊行されることを望んで校正の手を緩めなかった。
 元禄9年(1696)には出版への歩みが運ばれ、京都の書店に依頼した書写が完成し、筆工の心鏡に銀粉の法華経を贈って喜ばれている。

悲田派壊滅と分派と晩年
 貞享の初め頃、岡山において津寺と日指の間で論争が起こった。
これが、今の金川妙覚寺の不受派と我が講門派と不受不施派が二派に分裂するもととなった事件である。
 日指方は日相の和融案を退け、講師の調定も拒否して「除講記」を著わして分裂した。
 これと時を同じくして、幕府の不受不施派弾圧は激化し、その手は悲田派にも伸びたのである。
 悲田派禁止の命が下され、日起ら70名余りは伊豆に配流された。
 これに抗議して断食自害する者もあった。
 このように講師の晩年にあっては、寛文法難以後における最も強烈な不受不施壊滅の弾圧が下され、その余波が講師の身の上にも及んだのである。
 つまり、法華経万部の読誦成就を記念してその万部の塔を建立しようとしたが許されず、日相からの忠告で、録内啓蒙の出版を断念せざるを得なかったのがそれである。
 講師は配流以来、絶えず自分の精神生活を反省され、驕ることを戒め、流人としての心構えを工夫されたようである。
 ところで、一度は断念していた録内啓蒙の刊行も元禄6年頃から希望が与えられ、翌年には法華経万部読誦の記念碑である万部の塔が、はるばる大坂から石をとりよせて建設され、最も難関であった題目と日講の記入の件も許可された。
 また、自らの墓地も、その心のままに設計されて満足されている。
 講師は、佐土原に配流になってからも、御会式・彼岸会・盆会・先師諸聖・縁者の命日には法要を営まれ、多い時には50余名の関係者を招待されている。
 また、便りに至っては、大阪・京都・岡山・関東から絶えず交換されており、その近況などは手に取るがごとく知られていた。
 講師は、世間的な交際については一切の差別を超えて接しられたが、一度び信仰上の問題になると厳として不受不施精神を乱すことがなかった。
 例えば、藩士の娘が難産で死去した時、その依頼で葬儀を出しているが、お礼は一切受けられなかった。
 また、領主飛騨守の七回忌には配所で法要を営んだのみで、招請を辞退されて城には登らなかったのである。
 講師は、配流されて3年目に病気で温泉に療養されたことがあったが、それから8年後の延宝4年・講師51歳の時にはハリと灸を用いられるまで悪くなっていた。
 59歳の時には医師の診察を受け、数年後には一進一退の様子で、「後どれくらい生きられるか…」と漏らされている。
 この頃から痔を併発され、70歳の年には、これで苦しまれたようである。
 そして元禄11年(1698)の3月8日風邪で病状が悪化し一時は危ぶまれたが、医者の処置で静まり、翌日は寝床で読書をされて過ごされたが、夜になって胸の痛みを訴え、容体が急変し、夜半過ぎ、配所にあること32年、73歳の生涯を静かに閉じたのでありました。

【抜粋要約】