第一章 日蓮宗不受不施派の歴史

福田五人衆


「捨身の行者捨書」

福田五人衆

 福田五人衆といわれるのは、佐伯六人衆と同じく、寛文法難の一つである。
 本久寺出寺僧、日勢が、各地にのがれながら布教活動を行っていたが、幕府の探索の手はきびしく、身を置く所もない状態となった。このため寛文九年、現、津山市福田の佐良山古墳の中で、不受不施義のためみずから断食して、入定されたものである。
 このとき、四名の比丘尼が行をともにしたものである。
 今「捨身の行者捨書」と言う日勢上人の書置によって、その意とすることを、偲ぶこととする。
 「捨身の行者捨書 第一」の文意
 法華経、法師品には「当に知るべし、是の諸人等は、已に曽て十万億の仏を供養し、諸仏のみもとに於て、大願成就して、衆生を愍むが故に、この人間に生ずるなり」云々とあり、この文の意味は、今の様な悪世には、一人のためにも、法華経修行の功徳を、経文の様に説ききかせ、悪を防ぎ、善を持する行者とする。これが即ち如来の使である。是が大菩薩である。この僧を供養する功徳は、十万億の仏を供養する功徳である。この修善によって、即時に大願を成就して、生死ともに、仏であるとの意である。然しながら、出家の身となって、名利や、偏執に心を奪われ、遊戯雑談のみで、月日を送ることは、出世のあやまりであるが、等覚の菩薩は、人界利益のため、無明に障られ、妙覚功徳を失い、地獄苦に堕つることのがれ難し、云々。
 いわんや、一悪末断の凡夫の僧を師とするは、煩しきことである。
 経文釈書を師として、絶えず反省してこそ真の導師となることができるのである。経に曰く「放逸にして、五欲に著し、悪道の中に堕ちなん」云々。
 吾々は信力強く経文釈書を師と仰いで修行してきましたが、去年より已来、種々の悪口があり、恐ろしい事であります。
 経文には、信力堅固の者が、諸仏の弟子であるとあり、祖師は「信力だも弱くば、いかに日蓮が、弟子・檀那と名乗らせ給うとも、よも御用いは候はじ、心に二つましまして、信心だに弱く候はば、峰の石の谷へころび、空の雨の大地へ落つると思召せ、大阿鼻地獄疑いあるべからず、其時、日蓮を恨みさせ給うな、返す返すも各の信心に依るべく候」といましめ給うています。
 住む土地もない身でありますので、出寺の本願に赴くより他事なく、それ故に法義を立て、真俗男女、異体同心の信力に任して、妙勢・妙意・妙現・妙定・日勢の回向をお願いいたします。並に妙浄・妙閑の二人、また日閑・日長・日達・日教・日祐・日有以上十三人は、皆一味同心の行者であって、同じく、死に赴きます。各位も霜露の御身でありますから、最後、臨終の砌、諸仏が迎えの船車に乗して迎えに参ります。云々。
 父井の妙浄、妙閑の入定して果てた比丘尼及、矢田部の六人衆の名をあげて、一味同心の者であるから回向を頼むと書かれている。
 「捨身捨書第二」の文意

《文章が欠けています》

した。
 誠に事の心を案じて見れば、若し知人があれば、在所の者が出て来て、所を追出し、それのみならず、城主にまで申し上げて、本国は城主違背の大悪人として、隣国へ送り捨て法者を悩ますことは必定であると、是を知りながら一人とても、在家を申しましたならば、一人は十人となり、十人は百人となり、或は建部の法者、太田の親類等、行者の迷惑をかえりみずして、罪科に問はるることを、よく承知しています。
 自讃の様に聞えましょうが、恐らく四人の行者は、如説修行の法者であって、鬼子母神、十羅刹女が不肖の某に宿り給うて、仏前の御誓の如く彼等の最後、臨終を御守護下さるでしょう。
 自分はそれ程までとは思いませぬが、経文の虚しからざることを知ることが出来ます。
 然しながら、当時は悪世であって、今度、経文に相叶ますこと、多数の人が悪しと思って、言いますが、諸仏所歎の悦びがあります。
 しかしながら、諸人はこのことを悪口いたします。
 是は餓鬼が水をみて、炎と見る様に、行者を見る目も、各の自らの行いが、修行が足らないので、率直に物の姿を見ることが、出来ないからであります。悪比丘尼といはれている五人は「我れ身命を愛せず、ただ無上道を惜む」の金文を自分の眼の如く、心得て、一日を頼りとせず、一時一時の志「小欲知足捨悪持善」の行者であって、「来世に於て、必ず作仏を得ること」が念願であります。
 迹門には「我れ身命を愛せず、但無上道を惜む」、寿量品には「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず」とあり、涅槃経には「身は軽く、法は重し、身を死して法を弘む」と説かれていると聞いております。
 この経文に背きますならば、法華経の行者ではありません。法華経の行者も、色々あり、一致・勝劣・受不施・悲田等であります。
 この宗の衆は法華経の行者なれども、同名異体の行者であります。
 然しながら、寂光の霊地へ修行の強い行者が、数多参詣、殊にしげきは、当地の法害と思いますこと、経文と相違しています。故は如何と言へば、不惜身命と申して、死することばかりではありません。世人は口で言うことは罪科にならぬと、思っている様ですが、決してそうではありません。
 普賢品には「若しまた、是経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん、若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、若しこれを軽笑することあらん者は、当に世々に諸の悪重病あるべし」云々、とあり、この文を誦む人が多くありますが、口に誦むのであります。口に誦するとは、如何なることなるや、されば「若し是の経典を受持する者を見ては、当に起ちて遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」この様な行者なれば、僧侶男女、互に敬うこそ真実の法華経の行者でありましょう。
 当世の行者は、無明の酒に酔うて、?慢懈怠の毒を好み、諸悪重病の大悪人となっています。偶、受けがたき人身を受け、持しがたき法華経の行者となって、信心弱くして、成仏出来ないのは、畜生と異ならず、親子夫婦も伴なわず、只一人行く道、況んや老少不定の境、恐ろしいのは、この世であって、頼むべきは来世であります。信力強く、題目修行が肝要であります。出家と申す者は、心には煩悩の塵を払って、身には三衣を著し、手には経巻を握り、口には諸仏出世の本懐、衆生成仏の要法を唱えるのであります。経に曰く「如来の所遺として如来の事を行ずる」の僧であります。これを軽んじ、そしるものは、釈迦如来を常に軽んじて、そしる罪より勝れたりと仏説にあります。即ち法師品を見て下さい。
 只、後世を願う人の恐るべきことは謗法罪であります。必ず恐るべきものであります。
 妙勢・妙意・妙定・妙現、の四名の者が、時節到来したので断食をしたいと申し出ていたがこのことについてはしばしおしとどめていたが今年になって比丘尼の修行は当地の法罪であると寺や本家に御沙汰があったのでこの分では本願に赴きたいとたって願い出て来たので拙僧も承知いたしました。「我れ身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」と心得えて来世に於て必ず作仏を得ることが念願であると書かれている。
 「捨身拾書 第三」の文意
 比丘、比丘尼五人の最後臨終の事を、申聞かせたいところも、沢山ありますが、此事を申しましたならば、上意を以て、本国に送り返す様にされる障がありますことは御存知の通りであります。それ故、種々と分別して、諸人の気力を計り、時刻を勘え、住所を尋ねて、その結果、寛文第九己酉年二月朔日の早朝の午前六時に、是より南一里半程のところ、福田村の家の奥の山路の辺りに、塚があり、この塚を霊山大地と悦入りて、曼荼羅をかけ、花香灯明の三供養を備え、五人一同が手を合せ、眼を閉じ、南無妙法蓮華経と大声にて唱え奉る有様、殊勝とも、申すに類いまれなことと考えます。此時は三宝諸天も、来臨され、納受されることであります。
 拙僧はこの志をもっておりましたから、「当に知るべし、この処は即ち道場なり」との教を尊び、此処が即ち霊山であると約束して只一筋に南無妙法蓮華経と或は書し、或は誦し、また唱え、または書いたのであります。此等のことは古今見聞したこともなく、また後の世にもすることではありません。これ等は、皆諸仏がほめ給うところの行者であります。
 自讃の様に思われますが、私の申す事ではありません。経文釈書に出ていることであります。拙僧、何方にて身は果てましょうとも己身の宝塔は彼の塚の内に四人のために留置くことであります。心あらん行者は、毎年二月には彼場へ御参詣下さい。この塚は終には、法華経の霊地となりましょう。
 何故なれば、如説修行の行者は、五尺に足らない身の一つさえ、置く処はなく、若し身は置くことが出来ても、修行は成り難いのであります。彼塚は一人、二人でなく、五人一同に音を限りに御題目を唱え奉っています。
 当地は即是道場とも、また穢土即浄土とも、娑婆即寂光とも申します。
 「十方の仏土の中には唯一乗の法のみあり、二無く亦、三無し、仏の方便の説をば除く」の土地であります。
 各位信心に住して御参詣下さる様御願いたします。
 比丘・比丘尼五人の臨終のことを知らせたいところもありますが、そうすれば上意により、本国に送り還されること必定に存じますのでこの福田村の古い塚の中で、ここを霊山大地と考えて入滅する積りでありますから心あらん人は、毎年二月にはこの地へ御参詣下さいと記されている。
 「捨身捨書 第四」の文意
 不惜身命の行者の所願むなしからず、酉二月朔日、卯の刻に、彼の塚に尋ね入り、五人一同連座して、「有相・無相・非有相・非無相の意を得て」この様な衆生の数に在らん者に、人ありて福を求むこと、我も人も肝要であることを申し聞かせて、中道実相の、南無妙法蓮華経を書き奉った回数は、
  奉書御題目 二百九十返 妙勢
    同   二百四十八返 妙意
    同   二百五十六返 妙現
    同   二百九十返 妙定
    同   三百返 日勢
 この様に五人に、各帳面があります。
 此帳面は、仏の世に出現するのは、「衆生に仏知見を開・示・悟・入せしめんがためである」であるから一生入妙覚の大印文であります。即ちこの帳面を納め置く処が、此等五人成仏の在所であり、道場であります。各々左様に思召して、墓をお建て下さい。
 この帳と申すは、五人の奉書の御題目の事です。今の肉身は狗犬の食物になるとも、苦しからず、彼の題目帳を正体として、各御回向をお願いいたしします。云々。
 「捨身捨書 第五」の文意
 このたび、比丘・比丘尼衆の最終臨終を見送りいたします。しかし迷執にとらわれた比丘・比丘尼であると、取り沙汰されることは、内々存じています。眼前に見えて、清浄な修行についても、猶悪口せられます。
 況んや、山谷にかくれ、諸人に隠密にする事について、疑念を持たるる事は尤のことと存じます。拙僧、此の理由を申し上げても、その疑は晴らしがたいので、今仏前に於て、自説誓言の教えでありますので、拙僧もまた、諸人へのあかしのため、一紙誓状を残します。拙僧、不詳の身でありますが、備前国津高郡建部の生まれで、二宮新兵衛の孫であります。生年八歳の時、同国磐梨郡佐伯、本久寺、重善坊にて出家して、生年十六歳九ヶ月間、仏教を学び、寛永二十一年甲申正月十九日より、師の跡をつぎ、外には法命相続のかたちとして、振舞い、内には名聞名利、我慢偏執の失あり、この様な失敗を生年二十五歳十ヶ月間もその失を考えずにおりました。
 二十五歳の五月二十日に大日輪に向かい奉って、拙僧、愚痴闇冥にして、仏道の深義を知らず、然しながら、宿習深厚の業でありますので、末代当時の悪世に生を受け、一生入妙覚の大極法を行わず、出家の身となって、名利・名聞、我慢・偏執の恐ろしいことは、承知いたしましたので、終に、我れ身命を愛せず、但無上道を惜む行者となりました。
 諸天、この志を喜び給わば、法味を聴聞し、報恩を垂れしめ給へ、
 「天の諸の童子以て給仕をなさん。刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」、また「諸天昼夜に常に法のための故」の金言に任せて、法義所立の真俗男女が寿命長遠と、大願成就と守護し給へと、朝暮歎くことは、三宝諸天が常に御知見の通りであります。
 また宝塔品の場合、集まり給う諸仏菩薩の数、十方世界の雨の如く座を列ね給いてお座すその中で仏の曰く「諸の大衆に告ぐ、我滅度の後に誰か能く斯の経を護持し、読誦せん、今仏前に於いて、自ら誓言を説け」と。この意味は如来の滅後に法華経を能く守り、能く持ち読誦し奉るべしと、我前に於て、各自ら誓言を立てさせ給えとの意味であり、一度ならず、再度迄「今仏前に於て自ら誓言を説け」と戒められている。どうして、この誓を破らせ給うて、法華経の行者を忘れられることがありましょう。
 若しも拙僧をお疑いになるならば、三宝諸天に御尋ね下さい。そうでなくて、心に任せて疑い、口に任せて、悪口されますならば、少々の善根も、忽ちにしてやぶれ、題目修行の功徳も隠れてしまって、終には、必ず悪道に堕ち給うであろう。このことは経文に明らかであります。各々が御疑いのない様に誓状を作った次第です。
 拙僧が最後の導師をいたしますが、迷者の行者であると思う人のために申し上げます。
執着の方を以て、導師をいたしますならば、五人共に無間地獄に堕ちるでありましょう。此等、五人は「最末後の身に於いて出家して、仏道を成ぜん」の金言によって、過去生々の重罪、現在の漫々の業、煩悩、衆罪、霜露の如く恵日よく消除せんと、出家して、心なくも、只、南無妙法蓮華経と唱えています。
 この故に疑なく、只、南無妙法蓮華経と唱え給うべし。
 無二の信心に住して、只、南無妙法蓮華経と題目を唱え給えば、「願わくば、此の功徳を以て普く一切に及ぼして我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」の金文の如く、皆共に、仏の使となり、自身の信力は弱くして、他人の修行を破失するのは、無間の業因というべきでありましょう。南無妙法蓮華経。
 「捨身捨書 第六」
 寛文第九酉暦未の刻に写皐る。
 悪筆なりと雖も、御所望に依って之を写す者也。将亦後見の人々、日悟と一返の回向頼み奉候也
                       筆者 知円
  安永八年己亥九月  日          右を亦同不知
 「捨身捨書 第六」は日勢上人の書置ではなく知円と言う人が加筆したものである。
 この「知円日悟」とはどんな人物であったのか、また、日勢上人とどんな関係のあった人物なのかについて白髭武徳先生は『福田五人衆第三百遠忌』にあたり刊行された「資料」の中で次のように述べられている。
 寛文から享保に至る約六十余年間に「日悟」と同名の人々は諸記録から抜書してみると、七名の人がある。しかしこの中から「知円日悟」であるとする確証はないが妙覚寺に伝わる「日悟事」と称する古い、過去帳より次のような記名のあることを見出した。
  雖為悪筆依所望無是非宗者也
    干時延宝第五丁巳六月廿四日      ○○○○
○ ○
○○の処は墨汁をもって抹消されているが
                       筆者 ? 圓
                          日 悟 花押
と判読されるのでこの人物が捨身捨書 第六の筆者「知円日悟」と同一人であると立証することが出来る。云々。
「猶、日勢上人との関係については後日の研究にまたねばならぬが、日勢上人より捨書の写筆を依頼されたと解すれば、同門または余程親交のあった人物と想像される。」云々。
尚筆者不知とあるのは著名ならざる者故に謙遜して不知と記したものである。
因に安永八年は寛文九年より百十年後である。
 この「捨身捨書」には断食して入定せざるを得なかった当時の状況や、その心情が生き生きと描写されていて、今も読む人の襟を正さしめるものがある。

以下文章不明