昔から葬儀や法事での作法が語り継がれています。
どんなものが有るかというと、例えばご法事でお墓に向かいますが帰り道は来た道と変えるというもの。
同じ道を帰ると、亡き魂が「あ、帰宅するんだ」と付いてくるからだと。
道を変えると「帰宅するのではないな」と思ってお墓に留まると信じられた。
「あなたは亡くなったのだから成仏を目指してください」との思いでしょうか。
また、同じ道を帰ることが「同じことを繰り返す」と解釈され、悲しいことが繰り返されないよう縁起を担いだ意味もあるようです。
出棺の際に棺桶を三回半右回りにして出発するという習わしがあります。
ぐるっと回して出発する方向を死者に分からないようにし、帰ってこれないように~という意味があるそうな。
野辺送りは今では見かけません。
霊柩車とそれに続く車列が葬列になります。
道を行き交う人が葬列に出会うと道を譲り、手を合わせて見送りました。
道を横切ろうとする人は葬列が去るまでじ~っと待っていました。
今は、霊柩車と僧侶が乗る車の間に平気で割り込みをする車をよく見ます。
葬列と気が付かないのかもしれませんが、人の死に尊厳を持たなくなったきた時代のなせる業と言えるのかもしれません。
追善では読経を行った後に墓参りをしますが、お塔婆は紙などでくるんで持参します。
お塔婆を素のまま持参すると「法要を行っている」と他の霊からも見られ、おこぼれを頂戴したいと付いてくると考えたようです。
意図しない餓鬼霊が付いて来ないようお塔婆は見えないようにして墓参したとか。
これらの事を迷信とか単なるこじ付けと断ずるのは自由です。
しかし、遺族親族の方々が悲しみの内に葬儀を行い、大切な人の死を受け入れて行く大事なプロセスです。
それら一つ一つは亡き人を送り出し、訣別の意を決していく儀礼でもあります。
「死」というものをどう捉え考えるか、特に自分の死とどう向き合うのか、重要な問題がそこにあるのかと思います。
寺報234号から転載