日講は覚隆院の改悔を受入れて志しを褒め、日指方総代の本柳院および市郎太夫の二名を急ぎ上京させ、日相に改悔すべきであると奉じたのが貞享二年八月のこと。
ところで日指方は、『本尊は謬り』という裁決を頑として承服せず、説得も拒絶したので、此の頃日相に破門されている(寺報二七〇号記載)。
同年十一月九日に再び日指方は、江田源七を日講に使わし、
『二幅の本尊と日堯の条目を返して欲しい。
日相に従うことは難しく、津寺との和合も致し難し。』と申し立てた。
破門されたので、本尊と条目を取り戻しに来たということか。
対して日講は
『本尊と条目は永く此方に預かり置く。
もし法を破るならば、その罪は日堯に帰し、由々しき大事になる。
相当な信心道念をもって日相に改悔した上、津寺方と和合すべきである。
その首尾を知らせる書状が日相から届けば、申し遣わす。』とした。
種々教誡を加え、「今は帰れ」と江田源七を帰国させている。
何とか元の鞘に納めたい日講の気遣いが伺えそうだ。
寺報第272号から転載