不受不施の話(113

導師不導師の問題(11

 史料「法難」では天和と貞享を行ったり来たりして記述しており理解し難いのであるが、讃州流罪の日堯の見解が示されている。

 「内信者が自ら所持する本尊お曼荼羅を拝することに何の問題もない。
 もしそれが、日述、日浣の教えに相違し謗法の因になると云われても、流罪となった僧が苦しからずと言っているのだ。」として堯了状を認めていた。

 なお日堯は貞享元年二月十日に亡くなっている。
 一介の僧が「昔からの不受不施の教えに背き、先師の命に相違するとしても」内信者が所持するお曼荼羅を拝することを許可した…此の堯了状が世間に流布すれば日堯の立場がなくなると見た日講は、その扱いを慎重にしたという。

 日了は、日講のこの配慮を大いに悦んだそうだ。
 かくて日指の覚隆院は、日了の勧めもあって貞享2年8月19日に法灯違背私立制法等の改悔状をしたため江田源七を使いとして日講に謝罪したのであった。

寺報第271号から転載