使いの者たちは「日指方、騒動の沈静化に応ぜず不通に処す」の始末と「春雄院が認めたる本尊は謬りである」ことの裁決を聞き受け、それぞれ帰途に付いた。
而して、日指方は『本尊は謬り』の裁決に納得せず、頑として承服しなかった。
ために、日相は日指方を破門するに及んでいる。
一方、讃州の日了は、日堯の本尊と春雄院が認めた本尊に加え、日堯の条目、そして自身の書を添え、逢沢清九郎、井上三右衛門を使いとして日向佐土原の日講に再審理を願い出ている。
日講は京都の日相に裁決の内容を照会、讃州丸亀の流僧・日了に書を送って事の詳細を求めている。
その間、日講は「二幅の本尊と日堯の条目」を手許に留め置いた。
日堯の条目は「堯了状」とも云い、日堯の甥であり弟子の立賢に託した本尊授与の心得書である。
後に日講は『堯了状能破条目』を著して反駁しており、萬代亀鏡録下巻の付録に収録されている。
寺報第270号から転載