紛争当事者たちも、このまま騒動を続ける訳にも行かず、貞享2年に至って日相に裁定を仰ぐことになった。
事が起きて3年目である。
そして、貞享2年6月26日、日相のもとに関係者トップを召喚し、日相はまず皆を諭すことになる。
『今法滅の砌、一味の内引き破り争論致すこと大罪なり。
法命相続の道念に住し双方とも我情を捨て両改悔にて和合すべし』と。
さらに『是非を料簡する時は一方は理、一方は無理なる方あるべし』とも。
つまり、法中-法立-内信の関係を確認し、内信者の法名を曼荼羅に併記することの是非が問われたのである。
『弾圧による不受不施崩壊の危機に内部対立などしている場合ではない』という日相の仲介によって論争は沈静化して行った。
そして、法立が導師を勤めて良いのかどうか、お曼荼羅の表記の問題などは追って裁定するとした。
「法難」という資料には、津寺方は了承して謝罪することになった。
日指方の覚隆院はこの騒ぎに責任をとって改悔したとある。
しかし、助七以下は「一味の者多き故、改悔させるのは難しい」と異議を申し立てた。
日相は、色いろ日指方を諭したが一向に承諾しないので、遂に日指方に不通の旨(絶交)を言い渡すに至る。
天和3年9月末、讃州丸亀の流僧・日了が使いを上京させ、裁決の模様を聞き合わせている。
同じく春雄院も岡山の切附屋市右衛門を使いとして、自分が認めたお曼荼羅本尊が謬りかどうか問い伺った。
奇しくも使者が同時に日相の許に会したという。
寺報第268,269号から転載