津寺の覚照院も日指の覚隆院も岡山下之町において宗順・助七の対審に列座し二人の改悔にも立ち会っている。
しかし、助七が導師をしたか否か~の本当の結論は出ていない。
そこに、日指方が『宗順は助七に謝罪するべきだ』と言い出した。
『宗順は助七に対して謗法を云い掛けた罪があるからそれを改悔させねばならない。
そのことは津寺の覚照院も承諾しながら何故等閑ナオザリにして置くか』と詰め寄るのはどんなものなのか。
片や、津寺の覚照院は『助七が導師をしないものを宗順がしたと偽ったのならば咎はあるが、助七が実際導師をしたとすれば宗順に咎はない』という見解であった。
まぁ埒が明かない論争というか。
しかし、次第に日指方津寺方に分かれ、お互いに謗法呼ばわりをなし、所々に怪文を飛ばして争うまでにエスカレートしていった。
この騒動の見聞は次第に広まり、京都に法難を逃れていた元岡山蓮唱寺の法灯職、智鑑院日相上人(泉州様)の耳に届くことになる。
寺報第266,267号から転載