ちょっと筆が滑ったにしろ、清派と濁派が分けられているのに何故同一視したのか。
あろうことか流僧がそれを認めていた事が判明したのである。
時系列を整理すると延宝9年の衣替えの時期(春か秋かは不明)に日堯が清濁同一視の本尊を書し、翌年の天和元年10月に法立の浅島助七が曼荼羅を拝しているのを法立の宗順が目撃。
そして翌年9月と10月に宗順が助七に倣って導師を勤め、それを見た内信者に告発されて謗法が知られるに至った。
春雄院と流僧日堯の謗法曼荼羅の件は確かに問題ではあるが、その前に片付けておくべき件があった。
それは、資格がないのに導師を勤めた法立宗順の処分である。
これは天和2年11月12日、事が発覚して一か月後、津寺の法中覚照院日隆のもとで宗順は改悔し、許されたのであった。
寺報第263号から転載