助七が手にしていた本尊曼荼羅は春雄院が授与したもので、内信者の法名が列記されており、それは清派濁派を同一視した書き方であった。
「これは謗法にあたるのではないか」と春雄院に非難の声が上がるのは必然だった。
その非難に対し、春雄院の弟子たちが「それは春雄院一人の考えではなく流僧・日堯の教えに倣ったものだ」と援護した。
「もし、春雄院が謗法を犯したと言うなら流僧・日堯も同罪だ」と言っているのと同じなのだと。
当時の流僧といえば流僧と云うだけで誰も異論を挟まなかった。
つまり、不受不施を貫き法難に遭った流僧が謗法を犯す訳がない。
流僧・日堯を謗法呼ばわりするとは何事ぞという論法である。
流僧の権威と彼の本尊の引証を頼みに、春雄院への非難は大間違いであると擁護したのだ。
しかし、日堯の本尊を検証した結果、此れも謗法であると論ずるに至ったのである。
寺報第262号から転載