もとより不受不施に関する史料は禁制時代以降あまり残っておらず伝承に頼るものも少なくありません。
拙僧が手に出来る資料もそう多くはなく先人が残してくれたものや大安寺に所蔵する本・冊子が主なものである。
此処では「法難」と題した一冊の本や散在する資料を参考に、不受不施派が何故二派に分かれることになったのか、その経緯を追ってみたいと思う。
【天和事件】
天和2年(1682)9月、備前岡山に法立の宗順という人物がいた。
彼は岡山栄町の内信者万助の仏前を拝し同年10月に同じ栄町の内信者丁字屋九郎太夫の家で看経の導師を勤めた。
これが問題となる。
何故問題か?
法立は導師の資格を持っていない。
持っていないのに導師を勤めたからである。
早速、宗順を呼び出し調査が始まった。宗順は「前年10月に久世で自分と同じ法立の浅島助七なる者がしていたのを見てそれに倣った」と言うのだ。
寺報第258号から転載