「不受不施僧ー不受不施信者ー内信者」という構造は自然に出来上がったもののようです。
内信者といえど不受不施僧から見れば謗法者であるため布施供養を受け取るのはNGでした。
そこで一旦不受不施信者が内信者から布施供養を受取り、それをもって不受不施僧に供養するという手順を踏んだのでした。
不受不施信者は、謗法者から施しを受け取るのは良いのか? という問題はありますが「お布施という形でなく、世間一般のやり取りなので不受不施信者が謗法に染まることはないとしたものです。
苦肉の策といえばそうなのですが背に腹は代えられません。
そしてこのような構造を佐土原の日講は容認されました。
学術的には、内信者を認めるべきではなかったという論もあります。
しかし、不受不施禁教の社会で世捨て人となりその法灯を守って行くのは並大抵ではありません。
時々見つかっては弾圧され僧侶は捕縛遠島の憂き目に遭います。
組織弱体消滅の危険は常にありながら二派に分かれ、明治までの二百年余りその法脈を守り通せたのは奇跡的だと言えるでしょう。
寺報第257号から転載