不受不施の話(97

寛文法難後(7

 福田五人衆の殉教(1

 矢田部六人衆が処刑されたのは寛文8年6月。翌年9年には福田五人衆の殉教が起きている。
 美作国福田村(現津山市福田)にあった横穴式古墳の石室の中で抗議と失望のお題目をあげながら僧日勢たち5人(尼4人)が断食死したのです。
 日勢は先の日閑と同じ本久寺の僧です。
 不受不施への弾圧が厳しくなって行く中で憤り、お寺を退いて行き先定まらぬ行脚の旅に出た。
 しかし何処に行けども弾圧の手が伸びており、山奥の地といえども其の禁圧の手が回っていた。

 津山界隈を彷徨っている時に津山福田に大きな古墳があると聞き、日勢は最期の場所として辿り着いたと伝えられています。
 日勢は『幕府は飲料行路だけでなく地の五穀まで供養と仰せられるが正しくない布施は受けられない。
 ならば此のまま一滴の水も飲まない一粒の米も食べない。
 よし、この洞窟に入定して正面の岩に石をもって読経唱題と共にお題目を刻もう』と決意。
 時に寛文9年2月未明入籠したのであった。

寺報第252号から転載