不受不施の話(96

寛文法難後(6

 矢田部六人衆の処刑(4)

 日閑と共に処刑された5人であったが、処罰は彼ら家族親族にまで及び流罪となったのであった。
 著書「法難」には名前が羅列されている。
 特に、河本一族は二十八人衆として後世に伝えられており、そこには妻や兄弟・親や子供、二歳一歳の幼児も三人含まれている。
 まさに一族一党が流罪に処されたのであった。

 獄中の河本仁兵衛が遺した書状が佐伯町矢田の住民によって大切に保管されている。[以下意訳]
 『(前略)とても残念で仕方がない。
 このように皆がお縄にかかり、二十人以上が牢屋に捕らえられている。
 数日中には沙汰が出るであろう。
 もはや是れまでである。
 後は回向を宜しくお頼みしたい。
 朝夕お題目をただただ、あげているのみである。』

 ところで著書「法難」には処刑場の場所を京橋の近くと記してあるが、ものの記述によると「柳原処刑場」がそれらしい。
 現在の市内桜橋の東詰め土手を南下し、土手から下りる形で少し走ると右手に材木店があるその川辺り。
 実際の刑場は碑の場所でなく河川敷だそうだ。

寺報第251号から転載