不受不施の話(91

寛文法難後(1

 かくて不受不施一派は、江戸幕府・公儀に違背するものとして烙印を押され弾圧されたのである。
 そしてこの寛文法難を契機として寺院整理が各地で行われていった。
 寺院整理は時々あったらしい。

 岡山・池田光政は、儒者である熊山蕃山の進言を受けて、幕府の不受不施派処断に便乗し岡山藩の寺院淘汰を行った。
 岡山は、大覚大僧正の布教に始まり、日典・日奥の影響大であり、不受不施的な意識がもっとも根付いた土地であった。
 日典の出身地は野々口である。

 当時、備前備中には、一千余りの仏教寺院があり、僧侶数約二千人を数えたという。
 その中でも蓮昌寺、妙善寺、道林寺(御津中山)、妙国寺は備前法華の中枢であった。
 妙国寺は大寺であり、九十八の末寺を擁していたという。
 池田光政は、それら寺院三百十三を廃絶し、五百八十五人の僧侶を追放したという。
(「法難」に記述)。

 現北区の横井上、富原の地域周辺だけで、不受不施派なるが故に廃寺にされた寺が七ヶ寺あったそうだ。

寺報第246号から転載