寛文6年6月26日、およそ一か月を島津屋敷に預けられた日講は、日向佐土原に赴くため警護の侍と共に馬乗の人となった。
品川・川崎・神奈川に至るまで「見送る群衆数かぎりなし」であったという。
伏見・大坂もまた同じであった。
日浣と日講は同じ日に同じ道を歩んだらしい。
道中前後し、たびたび遠見に目で挨拶することもあった。
7月12日、陸路から海路に移って瀬戸内海を西進し、7月20日に日向佐土原の草庵に到着したのである。
不受不施派全滅
身延は訴訟を起こして、不受不施派の寺々を末寺としていった。
奉行甲斐守は上申して「不受不施の一派は公儀違背の宗旨たるゆえに天下亦同滅亡」と評決した。
よって不受不施派はことごとく処分されることとなった。
この法難で不受不施派は表面上全滅したのである。
日奥時代の大仏事件が起こった年からこの寛文6年まで71年。
身池対論から37年の月日が経っていた。
寺報第245号から転載