時に寛文6年(1666)5月28日。
日講は、日向佐土原島津飛騨守忠高。
日浣は、肥後人吉相良遠江守頼喬にそれぞれ預かりとなった。
両人を預ける奉行には、既に内密に言い渡していたそうだ。
つまり、罪状は既に決しており、出頭させて裁決を仰ぐのではなく現在でいうところの逮捕と同じであった。
日講日浣は、両手と腰を縛られ、それぞれの奉行屋敷へと連れ行かれることとなった。
甲斐守の屋敷を出ると沿道には千人余りの群衆が待ち構えていたそうな。
中には、大声をあげて泣き叫ぶ者、地に倒れる者、さらに道すがら辻々に多くの男女たちが両上人の姿を拝したという。
(「法難」参照)
日講は、島津屋敷の長屋に日向佐土原に赴くまで監禁状態であった。
「狭き所にて窮屈なる体にて日数を送る」とある。
その間、領主の島津飛騨守は日講のもとに何度か面会に訪れている。
その折り、守正護国章を読み上げてその趣きを談じられ、このたび預かりとなる仔細について述べられたという。
島津飛騨守忠高シマツヒダノカミタダタカ
人吉相良遠江守頼喬ヒトヨシサガラトオトミノカミヨリタカ
寺報第244号から転載