不受不施の話(87

寛文法難(14

 時を同じくして日浣も諫状を行っていた。
 日浣は、玉造檀林・蓮華寺(現 千葉県香取郡多古町)の傑僧で、この寛文法難の際、日講と共に不受不施派の危機に奔走している。

 『父母の恩、衆生の恩、国主の恩を認めず、すべて三宝の恩とするの父母・衆生・国主の恩を忘れるに等しく、祖師の教えにも背くことになる。
 強いて手形の提出を求むるなら、これを拒否し、壇林の学徒は寺を退出して路頭に迷い、次いで信者たちに迷惑を掛けることになる。
 どうか地子の手形は免除していただきたい』
 『手形を出さぬのは、決してお上に違背するからではなく、義理・道理に合わぬからである。』と。

 寛文6年5月28日、甲斐守のもとに日浣、日講は出頭し裁決を仰いだのである。
 もともとが不受不施派を狙い撃ちするために企てた云わば法改正・解釈変更である。
 よって、手形拒否はお上への違背と下された。

寺報第242号から転載