不受不施の話(86

寛文法難(13

 直澄が日講の諫状を取り上げようとしないので日を改めることにしたようだ。
 翌、4月18日に井上河内守同座の前で日講は諫状を読み上げたのである。

 『…昨年、朱印を下され我が一派に寺領地子の供養を渡された。
 寺領地子は施す人の心に依ってその義は変わる。
 すなわち三宝崇敬の心で施与するなら供養となり、仁恩のために下すなら世間通用の施しとなる。
 仏法には恩を四つに分けて説く。
 父母の恩、衆生の恩、国主の恩、三宝の恩である。
 これらすべてを三宝の恩とすれば国主の恩は失することになる。
 その上に飲水行路だけでなく、大自然の恵みまで供養と仰せられるが、これは万人が共通に受ける果報であり、いわば国主政道の恩となるのである。
 これさえも供養といわれようとも寺領は辞退し、大自然の恵みはこれを受用して法を広めるつもりである。』

 と彼我の是非を糺明されるよう述べたのであった。
(万代亀鏡録下巻の一部を意訳)
 そして、寛文6年5月28日、甲斐守のもとに出頭せよと通達があった。

寺報第241号から転載