不受不施の話(85

寛文法難(12

 「土水供養令」は聞きなれない文言である。
 ネットで検索しても大安寺Webの関連記事がヒットするだけだ。
 歴史的に見て大した事件ではないのかもしれない。
 不受不施派にとっては大問題であったのだが…。

 寛文6年(1666)4月、幕府方は日講を呼び出した。
 『~幕府は寺領や地子だけでなく、飲み水や人が行き交う道路もご供養と思し召されている。
 汝らはそれを頂戴して命を保っているのだからその手形を出せ』と申し渡したのである。
 日講は何と返答したものか、奉行の直澄は「直ちに手形を書くかどうか!」と責めるばかりであったとか。

 この時、日講は「幾ら理路整然と抗議しても聞き入れてくれる耳を持たない幕府方に」議論の余地はないかもしれないと諫状書「守正護国章」を持参していたが差し出すことなく帰寺している。
 そして改めて5日後この諫状書を提出し奉行の前で読み上げたのだ。

※地子=今でいうと借地。
 借りているので借地料を地主に支払う。
 主に田畑を借り受けてそこの生産物を地代として納めていた。

寺報第240号から転載