不受不施の話(83

寛文法難(10

 小湊では、信者に向かって「本寺が朱印を出したのは末寺を助けようとしたためである。
 代受苦の菩薩行をしたのだ」と弁明していた。
 しかし、信者の離反がそれで止まった様子はなく、必然的に寺院の経営は悪化していったようである。

 当初は、本山が朱印を出せば末寺にはその必要がなかったようだ。
 檀林に関しては寺領がなければ、朱印を求められることもなかった。
 不受不施派にとって朱印のことは確かに打撃ではあったが、まだまだ勢力は衰えてなかったように見える。
 しかし、朱印を出した本寺が苦境に陥いったことで、末寺や関係する檀林を配下に取り入れる策略を施すようになる。
 手形の文言に「寺領地子悉く御供養奉存候」とあり、寺領同様に地子を扱うことができるとし、寺領がない檀林に地子の手形を出させようとそそのかしたのであった。

 それは争いとなり、一旦は本寺の訴えが棄却されて檀林や本寺との関係のない末寺は独立性が認められたのだが、新たに「土水供養令」が発布されて様相が変わってくる。

寺報第238号から転載