不受不施の話(82

寛文法難(9

 受不施派(身延方)と不受不施派に加えて悲田派が登場し、なんだか訳が分からぬ状況ではある。
 何処がどう違い、何がどう異なるのか。
 分派した理由はまた後に整理することとして、次第に禁制にされて行く不受不施派がどのように抵抗したのか気になります。

 野呂・玉造・松崎の三檀林には寺領がなかった。
 それゆえ朱印の提出も求められていない。
 教師である日講らを呼びつけて検議した記録はあるが、翌寛文6年2月になっても何の音沙汰もなかったようだ。
 しかし、日述らが流罪決定となっており、このまま無事では終わるまいというのが専らの見方だった。
 この間、何か策を講じたかどうかなのだが特に記録はない。

 一方、手形を書き、朱印を出した寺では信用を失っていた。
 不受不施信徒は寺を離れ、他宗の信者からは悪口を言われるという有様であった。
 つまり、大衆には「朱印を出すことは不受不施を捨てること。
 日頃から不受不施を唱えている法華寺がその不受不施を捨てるとは何ということだ」
と思われていたのだ。

寺報第237号から転載