寛文5年の末、関東千葉で不受不施派でもなく身延方受不施派でもない悲田派が発生する。
形としては、不受不施のまま寺領を受領する朱印を出すという方法で、事なきを得ようというものだと云えよう。
不受不施を唱えるなら、信者でもない徳川家から三宝供養として差し出された寺領を受け取れないのは明白である。
そして「寺領を受け取らなければ、徳川家ひいては幕府に逆らう者として咎を受ける」というのだから、この時点で不受不施派の存在は否定されていることになる。
ならば、小細工をしてでも寺領を何とか受領してしまえばその咎は受けなくて済む。
不受不施も立てながら寺領も受け取るという苦肉の策から生まれたのが、この悲田派だと云えるだろうか。
手形証文から「不受不施」の文言をのぞき「慈悲」の二字を加えてこれが許された。
寛文5年11月23日『此度御朱印頂戴仕り候の儀難有御慈悲に御座候、地子寺領悉く御供養と奉存候』として手形朱印を受けたのであった。
かくて、ここに悲田派が誕生した。
寺報第235号から転載