寛文5年(1665)は、まさに不受不施にとって受難の時代であった。
寺領を頂戴したという受取書である朱印を出すか出さぬかに留まらず、末寺や檀林に対してもその圧力が及んだのである。
戦国時代の力による支配から法による支配に移り替わっていった時代である。
合法的に不受不施派を追い詰める方策に転換し、それが重くのしかかってきたのであった。
不受不施そのものを責めるのではなく、寺領を受け取らなければ幕府・徳川家に背く反逆組織としてこれを叩くという道筋を作られた訳だ。
ただ、不受不施派も黙って叩かれたのではなく抵抗している。
「寺領を持たないので朱印を出す必要はない」というのも一例だった。
また本山の末寺とされ、その本山に寺領があれば末寺も朱印を出さなければならなかったが、一部ではあるが「本山、末寺の関係はない」として抵抗した事例もあった。
今でいうところの裁判を起こし、その理由で許されたこともあった。
そういった紛争の中で、小湊・碑文谷・谷中が「悲田供養」を打ち出し、混迷を深めていくことになる。
寺報第234号から転載