不受不施の話(79

寛文法難(6

 寛文5年10月上旬、日講日浣両師は会議に奔走し、手形を出そうとする寺々を説得した上、異体同心の覚悟を促して手形提出を拒否すること、不受不施儀を通すことを議定したので安堵したところであった。

 しかし、手形提出を拒否し、寺領を受け取らないことが上意違背となり、それがために「宗法が滅びることになれば、日本国中の不受不施が断絶してしまう」と考える僧も少なくなかった。
 手形を出せば不受不施を捨てることになり、出さずに上意違背となれば罪人となり、不受不施は幕府に盾突く教えとして断罪されるという袋小路の構図が作られていたのである。

 豊臣秀吉の千僧供養においても、規模こそ違うが似たような構図が京都法華宗に見られた。
 ただ、寛文法難は寺領の再交付という件を中心に全国的規模で起きたものという点で一線を画しているだろう。

 日講日浣両師が各寺を説得して手形を出さぬよう取り決めたとは言え、「上意違背すれば不受不施断絶の憂き目」の危機が去った訳ではないのである。
 ついに折れて手形を出す寺々が現れ始めるのであった。

寺報第233号から転載