不受不施の話(77

寛文法難(4

 『寺領は国主の政道の仁恩なり、供養は三宝の恩なり』で通っていたものが、この度から三宝供養と定められた。
 もしこれを受ければ三宝供養は破られるから誠に受け難い。
 これを受けなければ上意違背にあたることになるから、不受不施派は進退を極まったのである。(著 法難)

 これに先立つ4か月前「三宝供養の御朱印手形を致し(寺領を)頂戴せよ」と不受不施派寺院に内命が下っていた。
 翌8月2日、市ヶ谷自証寺において、また8月12日は三田の大乗寺において諸山の衆徒が会議を催している。
 8月17日には久世大和守から、飯高・小西・中村のいずれも現千葉県の三檀林に対し早く手形を出すよう圧力があったらしい。
 この時は、野呂妙興寺日講が反論し事なきを得ている。
 8月21日には谷中の感応寺において3回目の会議を開いている。(著 法難)

 短期間のうちに3度の会合が開かれたという事は、それだけ混乱が生じていた証ではなかろうか。
 「手形を出さぬことが上意に背くことになる」という大きな不安が渦巻いていたのである。

寺報第231号から転載