諸宗の寺領をもつ寺院に対して、
『今までは寺領を仁恩として下したが、今回からは三宝への供養として下するから、その受領書として手形を致すべし』と通達された。
時の将軍は四代目徳川家綱である。
家光の後を継承した時はわずか11歳であった。
討幕未遂事件(慶安の変)を乗り越えて政情不安が去り、幕府機構の整備が進められて一段落した時期である。
将軍が交代すると全国のいわゆる国勢調査が行われ、各地の大名の領地(石)や農民農地の調査と年貢の料率が決められた。
その一環として神社仏閣の領地も調査して再認するという一つの手続きがあった。
不受不施派が30年ほどの間、目立った弾圧を受けていなかったのは、身池対論のような対立が起きる大きな出来事がなかったことや、この機会をとらえ、政治の力で不受不施派をねじ伏せようと密かに準備を整えてきたからだろうと推察できる。
不受不施派が、法華未信・不信の者からの三宝供養は受けず~を逆手に利用した政治的弾圧の始まりである。
そして「幕府に違背した(する)輩」に置換されて行くのである。
寺報第230号から転載