不受不施の話(75

寛文法難(2

 『身延方が非議を構え徳川幕府に讒訴した陰謀がついに成功し~』というふうに先人の研究では述べられている。
 現代でいえば「ロビー活動が功を奏した」になりますか。

 身池対論からおよそ30年の間、特に波風は立っていなかったが、それは不受不施派を何とかやり込める手がないかと策と時期を窺っていた期間だったという解釈である。
 時は徳川四代目家綱であり、将軍の世襲制が盤石であることを世に示し、家綱の代から政治の中心を京都から江戸に移したのである。
 そして幕府の組織の整備が進められ、それまでの武力に頼った政治から文治政治への切り替えが行われていったのであった。

 寛文4年には大名に対する領知朱印状の交付、翌年には公家や寺社を対象とした領知目録を交付している。
 領知朱印状とは将軍が公家・武家・寺社の所領=つまり所有している土地においてそれを確定した交付書であり、将軍がその土地の所有を承認したお墨付き、今でいう公文書みたいなものであった。
 寛文5年11月に至り、諸宗寺院に対し、寺領ある寺は領知目録を差し出すべしと通達されたのである。

寺報第229号から転載