不受不施の話(74

寛文法難(1

 寛文5年2月、幕府は寺社領朱印の取締りを寺社奉行井上河内守加々爪甲斐守(加々爪直澄)に命じた。
 身延と直澄はこの時通じていたか又は意を同じくしていたか、ともかく家康の50回忌にもあたる寛文5年、身延の日奠は訴状を直澄に提出している。

 『寛文5年5月27日
 先年より、地子寺領の儀について受と不受の異論あり。
 彼の不受は地子寺領は供養にあらず、仁恩を以て下されたものと申し候。
 我が受は祖師の教えの如く、三宝への供養として下されしおかれ候と申し上げるもの。
 先年、両者の理非決断を仰ぎ候時、地子寺領は供養に極まれり、彼の者は罪過を仰せ付けられ候。
 ゆえに地子寺領は供養に定まり候こと。
 然らば、御朱印もそのように存知候。
(中略)
 御朱印を遣わざるにおいてはご公儀に背くものなりと申し上げる候(以下略・意訳』

 この訴状と共に日奠は寺社奉行・老中に向って猛運動をはじめたのであった。
 寺領を三宝とするか仁恩とするかは幕府にとって極めて些細な区別に過ぎない。
 個人の菩提・武運長久・家運隆昌・病気平癒などの祈願は三宝供養とする方が妥当だと考える向きが大きいと思われる。
 が、状況は変わりつつあった。

寺報第228号から転載