さて、身延配下の寺に留まることを是とせず退去した僧たちは何処に行ったのだろうか。
各地に離散して行方が分からなくなったというのではなく、割と近くに庵を構え、信者たちの帰依を受け続けたのである。
無住となった寺々に僧を派遣する余裕など身延派にはなかったし、由緒ある寺に僧を送ったところで不受不施信仰の檀徒の帰依を受けることなど望める状況ではない。
池上本門寺やその末寺も同様であった。
そのような機能を失った寺は布教宣伝の拠点として成り立たないのである。
しかも、寺の什器類は出寺僧が持って出ていた。
このように六本山とその末寺の身延派への帰属命令は受・不受双方にとって重大な布告であった。
しかも、末寺によっては抵抗勢力があり身延派に取込まれなかったらしく、この布告が有名無実になる可能性があったようだ。
その情勢は身延派にとって重大な問題だったようで、身延日奠は寺社奉行に訴え出ている。
出寺の不受不施僧の行為を批難し、それが法令違反であると追求したのである。
寺報第226号から転載