不受不施の話(71

対論の結末と(6

 同じ不受不施でも「王侯除外」という言葉が付くと少々ややこしい。
 なぜ「王侯」を除外しないといけないのかと。
 前からの不受不施には「純粋」の二文字を冠して区別するが「純粋不受不施」の名を当時積極的に用いた記録はなく、これは後の学術上のものであると思う。
 組織というものは、大きくなれば硬派軟派、主流と非主流の流れが起きてくるものである。
 それが、日蓮法華の場合、議論が対立へと発展し分裂していった。
 分裂決定が身池対論である。

 つまり、権力が集中し強大になって行く政治とどう向き合うかという課題が突きつけられていたと見ることが出来る。
 日本の各地方に領主が居て統治していた時代から、全国をまたぐ統治力をもった強い権力者の登場はそれなりにインパクトがあったはずである。
 それまでは机上論的だったものが、日蓮教団全体の存続に関わる現実問題となって迫ってきたのである。
 天文法難で京都から閉め出された痛い教訓を持つ僧たちが京都千僧供養の開催に恐怖したのも頷ける部分もあるけど。
 不受不施を貫くのが本流だと頭では分かっていても、貫けば弾圧が待っているという恐怖心に「一度だけ出仕して後に不受不施ゆえに不出仕を訴えよう」と不受不施の顔を立てはするが、その合意を守る気などハナからなかった。
 日重が事の元凶を作り、王侯除外という新義に突き進んでいったという先代の評価は間違っていないと思われる。

寺報第225号から転載