不受不施の話(70

対論の結末と(5

 時の家康に臆せず対峙し、不受不施を貫いた日奥が「身延無間」と断じたのである。
 その影響力は小さくない。
 いや、日奥が断ぜずとも、いずれ不受不施こそ宗義であると奉ずる関東諸山が身延山を批難し、同時に信者たちが遠ざかるのは時間の問題だったろう。
 結果、身延は経済的に困窮し、論争に勝てる見込みもなく多勢に無勢の体だったに違いなく、これをひっくり返すには日遠に帰依していたお万の方の力でも何でも借りて幕府を動かし讒訴して政治権力の助けを目論むぐらいしか手はない~と見るのが合理的である。
 身延山を批難したリーダー格の日樹ら六名には厳罰を処し、それ以外の僧たちは懐柔しようとした。
 ついで信者たちもそのまま引き入れることが出来れば身延山としては万々歳だったはずである。

 身池対論は、そういった策略を実現させるための舞台装置であったと考えれば対論の勝負はどうでも良く、如何にもっともらしい理由を付けるかだけである。
 そして導き出された罪状が「公儀違背」という訳だ。
 そういう「汚い手で身延が勝った」と広く知れ渡っていたに違いなく、まさに身延山は汚れてしまったと、僧たちは奪われた寺々を退去し、信者たちも嫌気がさして離れるのは至極当然だっと云える。
 つまり僧たちは六師と同じように処罰されるのを恐れて寺を退去した訳ではなく、信者らが離れたのはその僧たちに付いていったからである。

寺報第224号から転載