不受不施の話(68

対論の結末と(3

 家康は日奥を流罪に処し、千僧供養の廃止をもって赦免したが、日奥がこの赦免をどう受け止めていたか…。
 ご赦免帰洛後から身池対論に至るまでは、運命の悪戯があったにせよ必然だった~という話は述べてみた。
 身延にとって日奥は「日蓮聖人を祀る身延山を無間地獄呼ばわりする悪僧」と映っていたのではないか。
 千僧供養の出仕不出仕がこの件の起点なのだが、これほど大きな対立に発展するとは、かの日重も予想だにしていなかったかもしれない(七年前亡)。
 「一度だけ千僧供養に出仕し二度目は不出仕を上申する」という約束は守らなかった。
 本圀寺会議で座長をつとめた日重の責任は軽くない。
 日奥帰洛後の京都諸山の懺悔時に、日乾と日遠が身延山に異動になっていたのも不運である。
 京都在であったなら状況はまた変わっていた可能性も残されていただろうに。

 シナリオが出来ていた?
 さて、池上方が対論に勝つためには何をしなければならなかったのか? という設問が立つ。
だが、歴史を知る今でも上手い答えは見つからない。
 申し渡された沙汰は、身延側の主張とほぼ同じであった。
 池上方への処罰は池上日樹以下六名の配流に留まらず、関東諸山を身延山に与える処分にまで及んでいる。
 つまり、対論勝ちによる身延山の利益が最大化されたのであった。

寺報第222号から転載