不受不施の話(67

対論の結末と(2

 身池対論があった寛永7年(1630)は徳川幕府の権力が盤石になってきた頃。
 家康公は元和2年(1616)に亡くなっており、江戸の北面を守る日光東照宮社(後の日光東照宮)に改葬され、元和3年(1617)に東照大権現の神号を頂いて江戸幕府の始祖として崇拝されていた。
 家康の側室養珠院お万の方は身延山を庇護する大檀那であり、身延山地獄を宣伝する日奥や関東諸山、日樹らをこころよく思っていなかったはず。
 その影響力も小さくないだろう。

 家康公にミスはない
 家康が本当に不受不施義を日奥とともに封ずるつもりであったなら、千僧供養が自然消滅して対馬遠島の理由がなくなったとしても決して赦免しなかったはず。
 果たして、赦免の後、不出仕を貫いた日奥と出仕になびいた京都の法華宗との和解があり、不受不施義の御法度が再確認され、出仕派だった日乾、日遠が居る身延への批難へと進展していく。
 これも遅かれ早かれそうなる運命だったように見て取れる。
 そして日奥が「御赦免は家康が不受不施を許した証」と片隅で思っていたのではないかと。
 そんな気もしてくる。
 幕府は、家康公の日奥御赦免が誤りであったなど絶対に認められない。
 つまり、御赦免によって不受不施が認められたという解釈が生まれる余地などあってはならないのだ。
 従って、前号紹介の裁決文のように家康公に楯突いた「不受不施は邪義」とキッパリ断罪することが必要になる。
 さすれば、折り紙のことなど政治的にどうにでもなる。

寺報第221号から転載