不受不施の話(66

対論の結末と(1

 沙汰には次のような一文がある。
 一.池上日樹、このたび申し立てた不受不施の義は、家康公から邪義と申し渡され、日奥を遠島流罪に仰せつけられたもの。
 然るに、その裁きに背いて再び不受不施の義を標榜した罪あり。
 一.折り紙については、当の板倉伊賀守に憶えがないとの事。
 またこの折り紙があるとは云え、家康公の裁きが翻ることはない。
 しかもこの折り紙の年月日については不審な点がある。

 かなり意訳をしたが、この二点が池上方を負けとした主文になるだろう。
 日奥と家康の対決については寺報に「大阪城対論」と題して述べている。
 要約すると「一度でも千僧供養に出仕すれば以後は免除してやる」
 「出仕すればその理由書を発行してやる。
 文面はそちらで自由に書いてよい」と妥協案を出した家康。
 「不受不施義ある故、出仕は出来ぬ。
 そのようなご命令は今後なきように」と完全拒絶した日奥。
 家康は「これほど言っても余の命を聞けぬか」と一喝したという。
 家康の命に従わぬ不届き者=日奥の断罪という色彩が強く、不受不施義そのものが裁かれたとは言い切れない。
 不受不施を家康に向けて発し、破格的な妥協案でもってもなお承服しない日奥を家康は裁いたという見方である。

寺報第220号から転載