対論の場に日奥は列座していなかったが、事の張本人として再度の対馬配流が決まった。
しかし、この裁決が下された三週間前の寛永7年3月10日、京都妙覚寺において66歳で遷化していた。
『日奥、死後の流罪』として不受不施史では有名である。
裁決の後日、日奥の墓を暴いて遺体を対馬に運んだという伝承もあるが、本当かどうか定かでは無い。
何故、身延側が勝ったのか
先人の研究に依れば、身延山と幕府が結託して池上側を敗けとした~という。
確かに幕府と身延が手を結んでいるようにも見えるが、追撃の手を緩めなかったのは身延であり、幕府はそこまで積極的ではなかったと思う。
争点を再掲しよう。
一.不受不施と受不施について
二.日奥の赦免(と、折り紙)
三.寺領は仁恩か供養か
『不受不施と受不施』は主義・教義の違いだから勝敗を付けるのは難しく、『寺領は仁恩か供養か』については学説的に勝ち負け付けても余り意味がない~というか池上側に大きなダメージを与えられない。
ただし、コレを政治に持ち込めれば不受不施潰しに使えると身延は元同門ゆえに気づいていたと思う。
『日奥の赦免と折り紙』が今回の裁決においての要であった訳で、実に政治的な臭いがするではないか。
この身池対論の後、身延は幕府に対して「寺領は供養とするべき」と幾度も上奏している。
ソレが実現するまで30年。
幕府と身延が最初から最後まで結託していたとは思えない部分もある。
寺報第219号から転載