「対論」に引き分け~というのは、まず無い。
理非を決めるのだから、どちらかが勝ち、一方が負けと判定される。
そして、負けた側には罪・罰が与えられる。
詫び状を出すとか、以後は楯突かないという誓約を書かされたり、追放や寺院・財産の没収、遠島などというペナルティが待っているのだ。
対論に挑むということは命がけなのである。
僧侶といえども処刑されることもあった。
もちろん勝てば得るものが大きいこともある。
だが負ければ失うものも大きい。
対論はハイ・リスク、ハイ・リターンであり、しかも裁決者が公平中立であるとは限らないのだ。
さて、身延・池上対論の結果であるが、身延の勝ちと裁決された。
池上本門寺日樹は信州(長野県)飯田城主・脇坂安政預かり。
中山法華経寺日賢は遠州横須賀(静岡県)井上正利預かり。
平賀本土寺日弘は伊豆国戸田(静岡県伊豆市)に配流。
小西檀林日領は奥州相馬藩(茨城県)預かり。
碑文谷法華寺日進は信州上田(長野県)仙石政俊の預かり。
中村檀林日充は奥州岩城(岩手県)内藤忠興の預かりとなった。
このように追放、配流され、藩・大名預かりの監視下に軟禁状態で移動範囲も制限された。
だが、彼らは藩主や当地の人々から帰依を受け、寺まで寄進されている。
ただ、赦されることなく六名とも当地で生涯を終えた。
一方、この裁決に悲憤した小湊の日税や池上日樹の弟子三名が自害し、世間は騒然たる様相であったという。
寺報第218号から転載