身延と池上の対論が行われたのが寛永7(1630)年2月21日。
その沙汰が下されるまでの間、三問三答の文書提出があったと思われるが、具体的な記録はない。
残っているのは「自分たちは文書を出したが、相手からの返答がない」と、ここでもお互いが主張しているのみである。
池上方は『我らは提出したが身延から返答がない。
問答の作法において返答なしは負けになるべきだ』と云い、身延方の記録では『即座に出した』と真っ向から対立している。
ここにも小さな物語があったのかもしれない。
ただ、沙汰において「提出不提出」については言及されていない。
従って、双方とも三問三答の文書は提出したと見るのが一応妥当なところであろう。
そして一ヶ月余り、学者と老中が審議を重ね、ついに四月一日に対論の裁決が下され、翌四月二日関係者に伝達されたのである。
寺報第217号から転載