不受不施の話(60

身池対論(14

 四恩について簡単に説明したいと思います。
 『国主』『衆生』『三宝』『父母』の恩を人は生まれながらにして受けているという考え方です。
 強引な解釈をすれば『国家』『国民』『宗教』『両親』に言い換えることが出来るでしょうか。
 『国主』と『三宝』の恩が同一であると身延が主張するには無理がありそうです。
 またこの対論において「~だから同一である」との論理的展開が何一つなく、根拠が乏しいままです。
 日蓮直弟子・日向の著でも国家・国主の恩と三宝の恩は異なるものと論ぜられている~という池上方に対し、日蓮の言葉でなければ用いるべきではないと身延方は噛みついてはいるが…。
 これに対し池上方は、「日蓮口伝」を知らないのか?
 それにも増して、日向は身延山の第一世座主ではないか。
 何故、日向の論を用いないのだ?
 ひょっとして、汝等は大仏殿の供養を受けたことを恥と思い、その恥を逃れようと屁理屈を言っているだけではないのか?
 (「大仏殿の供養」とは千僧供養のこと)
 この時、日遠は「我は供養を受けていないので恥と思わぬ」と返答した。
 そして日乾は「寺領と供養は同一である。
 我はこれをあくまで受けて時に食とする」と弁明したのであった。
 これを聞いた池上方は、「何という暴論だ」と一同大いに笑ったという。
 さて討論は最終段階。
 「身延山は無間地獄なのか!」という論争に入っていくのである。

寺報第214号から転載