不受不施の話(58

身池対論(12

 『寺領は国主からの供養』であると身延方は言う。
 不受不施制から云えば、法華の信者でない者からの供養は受けない・受けられないのが道理である。
 特に純粋不受不施制は、一般庶民であっても国主であっても区別はしていない。
 だが、身延は「国主は例外である」とした。
 例外なのだから不受不施制は適用されない。
 一方、例外のない池上側にとっては、それが問題なのである。
 苦労して不受不施公許を得、折り紙まで頂き、各諸山は不受不施制を再確認したのに身延は従わない。
 何故なら既に制法が違うのだから、そういう事になる。

 従って『何故受けぬのか』と問うこと自体がナンセンスなのである。
 さて「寺領は国主からの供養である」と言い切った身延方に対し池上方は次のように返答している。
 寺領は国主の政治上の「仁恩」であり、供養は仏事上の「信施」である。
 日蓮の『国主大臣より所領を賜り、官位を賜うとも、それによって便宜を図ったり従属することは許されない。』
 法華未信・不信の者から布施供養を受けなければ、そのようなことに悩むことはない」の文を引く。
 日蓮聖人も「仁恩」と「信施」を区別してその違いを認めている。

※国主の怒りを買わぬ受不施制をとる身延に、「不受不施が公許されたなら受不施も公許されたも同然」という解釈が生ずるのも不思議ではない。
 時に、国主の意に沿わない不受不施より、受不施の方が公許への敷居が低いからである。

寺報第212号から転載