定刻、奉行の永喜が、まず始めに提訴状とそれに対する答弁書を読み上げるよう双方に申しつけ、対論に入るよう命じた。
※手元の資料は読み辛く専門用語満載である。
もとより、この対論の内容を解説した教書はない。
けれど出来るだけ噛み砕いて解説してみたいと思う。
論争のポイントや後の裁決結果がより理解できると思う。
身延方の言い分①
日奥と日乾の論争に際し、日奥を援護するために不受不施儀を持ち出し、いかにも不受不施が問題になっているとして、日奥の主張が正しいとしたのは国主に背く行為であるが如何か?
身延と池上の不和・対立の前には、日奥と日乾の論争があった。
再三述べてきたように、京都千僧供養会に端を発し、京都長老派の策謀もあって、家康により、供養会不出仕を貫く日奥は公儀違背の罪で対馬遠島を言い渡された。
後に許されて京都に帰り、京都諸山は日奥に改悔している。
日乾はその時身延に在し、別に改悔する様子もない。
よって、身延は日乾の所為で不受不施を捨てた汚れた山となり、関東諸山からも批難を浴びることになってしまった。
しかし、身延日乾の論争相手の日奥は、家康に遠島された罪人であり、その罪人に加担した池上日樹らの批難は不当であるというのが身延の主張になるであろうか。
※注釈。
「檀林」というのは僧侶を育成する道場や今の大学のようなもの。
檀林で指導にあたる教師は論客に相応しい立場でもある。
寺報第207号から転載