不受不施の話(51

身池対論(5

 『身延山の先師は不受不施の錦を立て、それを守ってきた。
 しかし、先師たちに倣わず、新義を立てようと企てている。
 先師たちに対して畏れを知らぬとは非常に悲しいことだ。
 日暹は、国主(大名)から田園を供養として受けたというが、これは世間一般の供養と仁恩供養、帰依と不帰依を理解せず、ご都合解釈したもので、誤りである。』

※仁恩供養は専門用語である。
 今は、そのような用語があることだけに留める。
 実は手元の資料によると、この日樹の答弁書は身延との対論当日に提出されている。
 幕府に身延が訴え出て、約一年が経過しているのに~。
 当時の時代でも、提訴されて一年間梨のつぶてというのは不自然な気がする。
 この期間に何があったのか、何もなかったのか。
 既に身延方が勝つように策が施されつつあったのか…。

 さて、時は寛永7年2月21日(1630)江戸城において正午から対論が開始されることになった。

寺報第205号から転載