『身延山の先師は不受不施の錦を立て、それを守ってきた。
しかし、先師たちに倣わず、新義を立てようと企てている。
先師たちに対して畏れを知らぬとは非常に悲しいことだ。
日暹は、国主(大名)から田園を供養として受けたというが、これは世間一般の供養と仁恩供養、帰依と不帰依を理解せず、ご都合解釈したもので、誤りである。』
※仁恩供養は専門用語である。
今は、そのような用語があることだけに留める。
実は手元の資料によると、この日樹の答弁書は身延との対論当日に提出されている。
幕府に身延が訴え出て、約一年が経過しているのに~。
当時の時代でも、提訴されて一年間梨のつぶてというのは不自然な気がする。
この期間に何があったのか、何もなかったのか。
既に身延方が勝つように策が施されつつあったのか…。
さて、時は寛永7年2月21日(1630)江戸城において正午から対論が開始されることになった。
寺報第205号から転載