身延が謗法を犯したという点は、家康が日奥を対馬に流罪したことが免罪符となり、決着していると主張した。
事は、秀吉が起こした千僧供養会が発端で、法華の信者ではない秀吉が催す仏事には、不受不施義から出仕拒否の立場をとったのが日奥である。
秀吉の機嫌を損ねては、京都法華宗に災難が及ぶと考え、不受不施を曲げて出仕したのが長老派を中心とした僧たちである。
さらに、最初の一回だけ出仕し「以後は免除」の上申をするという約束を長老派は反故にしている。
出仕を続けただけでなく、拒む僧たちを出仕に巻き込んで行った。
後に身延の座主となった日乾もその中の一人。
出仕を拒んだ日奥を「お上の命令を聞かぬ無礼者」として家康に訴えたのも長老たちの仕業である。
結果、不受不施義の是非よりも、お上の命令を聞かぬ者として流罪された日奥であった。
そして、豊臣氏滅亡によって千僧供養会は自然消滅する。
これによって争いの根源がなくなり、日奥は赦免となって京都に帰洛。
不受不施義は守るべきだが守れなかった京都法華の僧たちは日奥に謝罪して和解という流れになったが、既に日乾は身延の僧となり京都不在。
そして、三浦為春とお万を通して、日奥の批判著が身延の日乾の目に止まることとなり、日乾・日奥の対立に発展。
そこに関東諸山が加わって身延山を責めるまでになり、江戸幕府まで巻き込んだ騒動に拡大したのがこの身池対論である。
寺報第203号から転載