身延山と池上本門寺が公的な場で論争したので、身池対論という。
身延が不受不施を捨て、謗法を犯していると責め、信者たちにお参りをしないよう宣伝したため、身延へのお参りが激減したのは想像に難くない。
お参りが減れば収入も減る。
これは、身延にとって死活問題である。
しかも、宗内に強い味方がいる訳でもなく、これを打破するには、お万の方・幕府の権威に頼るしかなかったろう。
ついに、身延方が幕府へ訴え出た。
訴状を提出したのは寛永6年(1629)2月26日付で次のようなものであった。
『日奥の主張は、家康によって断罪され、遠島の罪を受けたものだ。
そして、彼は、たまたま許されて京都に帰ることが出来ただけである。
しかし、前の主張をひるがえさず、我らへ悪口、中傷は未だ止まらず。
そして今、池上日樹らの邪義を助けんと欲して、昔からの教えに背き、身延に対し、分を超えて悪口を言い放っている…。』と。
寺報第201号から転載