不受不施の話(46

身池対論に向かって

 この度の大堂造立の妨害工作は「無量無辺に候」と、日樹はお万のことを「和歌山の袋魔」と罵っている。
 その憤激の様が眼に見えるようである。
 寛永6年(1629)苦労はあったが堂宇の再建が成就し、日樹の念願が叶うに至った。
 この間にも、日樹をはじめとした関東諸山と身延の対立は深まっていた。
 元は、京都の日奥と身延の日遠・日乾の対立である。
 そして、その源は、秀吉の千僧供養にあり、京都の法華長老たちが打ち出した「王侯除外の不受不施義」であり、その新義を受け継いだ日乾と純粋不受不施義を標榜する日奥との対立である。
 そして、古来からの折伏不受不施義を奉ずる関東諸山が日奥の味方に付くのは当然であった。
 こぞって、身延を謗法山として宣伝したため、お参りが半減したという。

 ※池上本門寺略譜資料によると、大堂の再建は寛永三年とある。
 本資料と三年のズレがあるが、取り敢えず本資料の記述を採用したことを明記しておきます。

寺報第200号から転載