不受不施の話(43

池上本門寺

 池上本門寺十六世日樹は血気盛んな青年僧の頃から、京都の長老派が唱える摂受主義より、関東学派が主張する折伏主義を奉じていた。
 元和5年(1619)6月、池上前住の日友が五十歳で入寂した為、日樹は招ぜられて池上貫首の座に就いた。
 日友が在世当時のこと、池上本門寺は大火災に見舞われ、大堂や客殿その他多くの堂宇を焼失している。
 この池上の祖師堂は、慶長6年(1601)、肥後の加藤清正に関わるもので間口25間、奥行23間、巨石を肥後(熊本)から運んで造ったものであった。
 日友は、これら堂宇を焼失したことに責任を感じ、どうやって復興させるか心を痛めて寿命を縮めてしまったと云われている。
 後任の日樹は、池上復興の大任を担って入山したと言ってもよい。
 寛永5年(1628)1月12日、大堂の柱建てを行い、諸末寺・諸方面の信者たちに寄付を勧めて、翌年11月、遂に大堂を再建している。

寺報第196号から転載