不受不施の話(42

論争 広がる

 日奥の手紙を受け取った日乾は、直ちに日遠と合議し、弟子の隆恕(後の身延26世日暹)の名で日奥に対する反論一巻を作って発表した。
 この書にタイトルはなかったが、後に「破奥記」と名付けられた。
 日奥も黙ってはおらず、反論の反論として翌年三月に「宗義制法論」三巻を著し、これを論破したのであった。
 池上本門寺をはじめとする関東の法華諸寺は、日奥の説を支持した。
 寛永元年(1624)の頃、日奥は再び養珠院お万に対して書状を送る。
 「日乾・日遠二師に帰依し、身延に詣でることは、却って謗法を重ねることになるから止めるように。」
 これを読んだお万は、重ね重ねの不遜に我が事のように怒ったという。

 身延の日乾・日遠は、お万が深く帰依している僧であり、高僧の悪口とも取れる言葉に我慢ならなかったのである。
 お万は、日奥への返事は出さず直ぐに日乾・日遠に、この事を伝えた。
 それを知った日奥は、
 「これ程の悪僧を取り持ち給う檀那は、養珠院一人なり」
 「もし今の分にて身延の法水濁り、天下のお参りが止まり候はば、養珠院一人の過がにて候うべし」
 「今後とも音信ご無用に候」と断絶を申し入れたのであった。

寺報第195号から転載