釈尊が法華経を説かれた地である霊鷲山を模した名山・身延が、法華経を謗法する所になろうとは、誰が想像したであろうか。
皆がそれを悲しまないはずがない。」と、日奥は日乾の名をあげて攻撃した。
秀吉の千僧供養の際、日乾は当初、日奥の意見に賛同し、不出仕派の一人だった。
しかし、師の日重から執拗な説得を受け、出仕派に転じた若僧であったのである。
その後、日奥は対馬に流罪となり、時を経て御赦免になって帰洛し、京都中の出仕派諸寺院僧侶が日奥に改悔して和解した経緯がある。
その和解も傷口が大きくて、真の和解とは言えなかったにしても、日乾はその場にいなかったのだ。
日乾はその時、京都を離れて身延の僧となっていたのである。
それ故、日奥にとって日乾は、不受不施を捨てたままの謗法僧でしかなかった。
日乾の消息を知った日奥が、身延日乾を攻撃するのは自然な成り行きだったのであろう。
為春は、駿府に赴いた際、その手紙をお万に見せたようだ。
お万は、平素から日乾に深く信仰をよせていた。
その手紙を受け取り、身延の日乾に手渡したのである。
寺報第194号から転載